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アニメ『天元突破グレンラガン』について、個人があれこれつづるブログです。オフィシャルとは関係ありません。
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*世代交代について、語り続けます。

「4部はギミーの物語」と解釈することには、異論があると思います。
サブタイトルはシモンだし、目立っているのはキタンだしね。
実はこのへんはまだ自分の中でもモヤモヤして、まとまっていない部分です。

ただ、どうしてこんなことを考えるようになったかというと、結局、24話の大量死の意味が自分の中で納得できなかったから、なんですよね。

「4部はギミー」と解釈することで、ようやく、大グレン団の男たちの死も物語的に必要だったのかなーと(少しだけ)納得できるようになりました。

カミナの死と同様、お涙頂戴のためではなく物語を進めるために、「世代交代」というテーマを貫くために、必要だったのかなーと。


キタンはまだ見せ場があるからいいんですけどね(あくまで物語的に、という意味ですが)。
やっぱり、ゾーシィたちが「その他大勢」という感じでまとめてバタバタ死んでいくのが、自分はちょっと、受け入れ難かったんです(- -;)

しょせんモブキャラといわれればその通りなんですが、グレンラガンって、2部で、あれだけ大グレン団の結束を描いていたじゃないですか。
アディーネと対峙したニアが助かったのを喜ぶ大グレン団、テッペリン戦でグレンラガンの帰還を喜ぶ大グレン団のシーンがすごく印象的で。
3部でも、今度は悪い意味での集団心理や、それぞれがすれ違っていく群像劇がしっかり描かれてましたし。

それが4部では、グラパール隊がギミダリ以外顔も出てこなかったり、ゾーシィたちが24話でまとめて片付けられていたのが、すごく引っかかっていたんです。

もちろん現実では、人間は何の意味もなく死んでいきます。
ゾーシィたちの死も、3部のように、現実のシビアさを描こうとしたのかも知れません。

でも、この物語では、カミナの死やニアの消滅が物語全体の流れに大きな意味を持ち、キタンの死があれだけクローズアップされているのに、ゾーシィたちの扱いはちょっと粗すぎるなぁ……と思っていました。

ゾーシィたちも、その生き様と死に様が、後に続くギミーたちに大きな影響を与えたのだとすれば、脇役といえど「世代交代」という物語全体を貫く大きなテーマに関与することが出来たのかな、と思うんです。

一応、グラパール隊のヒヨッコたちを守るためにキタンを残してキッドとアイラックが出撃して行く描写がありますし。
(だからこそ、グラパール隊の方ももうちょっと描写してほしかったんですけどね。小説4巻では、グラパール隊が地球に残った分、ギミダリと大グレン団の大人たちとの関わりがていねいに補足されています)。

グレンラガンは全編を通じてシモンの成長物語であるわけですが、シモンは少年としては2部で成長しきってしまっているので、少年の成長物語という面からとらえるなら、3部はロシウのターン、4部はギミーのターンだったのかなと思っています。

空色デイズの歌詞はシモンの気持ちを歌っていますが、3部のロシウ、4部のギミーの心境にも当てはまりますよね?
誰かの背中を追いかけて、あの日くれた言葉を胸に、走り出す少年の歌。
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