アニメ『天元突破グレンラガン』について、個人があれこれつづるブログです。オフィシャルとは関係ありません。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
一迅社『カミナ&シモン写真集』感想のときは、正直に言うとショックだったので、おちゃらけた方向に逃げてしまったのですが、批判コメントをいただいたおかげで、自分の文章のせいで誰かが傷ついているかも知れないと思い直しました。
だから今度は逃げずに真面目に書きますね。
いわゆる「腐向け」について。
あらためて宣言しますが、自分は、そういう趣味もそういう趣味を愛する方々も、いっさい否定しません。
だから今度は逃げずに真面目に書きますね。
いわゆる「腐向け」について。
あらためて宣言しますが、自分は、そういう趣味もそういう趣味を愛する方々も、いっさい否定しません。
これまであちこちでグレンラガンの感想を読ませていただいてきましたが、今までで一番感銘を受けた文章は、「自分は腐女子」と公言する女性の方の考察でした。知らなかったことをたくさん教えてもらい、グレンラガンへの愛に感動もしました。
だから、そういう方を絶対に否定したくありません。
また、そもそもグレンラガン自体が「なんか出ちゃった」にはじまる、いわゆる「狙ってるな~」と思わせるセリフがてんこ盛り、放映禁止回まで出しちゃったぐらいの作品ですから、いちいち「下品です」と目くじらを立てるつもりもありません。
「狙ってるな~」の中には、「BLっぽく見えるのを狙ってるんだろうな~」「これで女性のお客さんも取り込むつもりなんだろうな~」と思った部分もありますし。
パロディや同人誌で出す分にはいっこうに構わないし、イベントでは声優さんたちだってそういうのをジョークにして楽しんでいるし、自分だって笑わせてもらいました。
第一、自分はリーロン大好きですし。
(〈追記〉これを書いた後で、またちょっと反省。自分には本物の同性愛者の知人がいます。当然、その点以外はごく「普通」の家族思い・友達思いの良い人間です。本当は「オカマ」をジョークにすること自体、改めるべきかも知れませんね……)
でも、『カミナ&シモン写真集』の「シモンとロシウの水着写真」だけは、正直言って、すごくショックだったんです。
自分の目がイヤラシイのか? 脳みそが腐化してしまったのか?
でも、どうしてもこれは「そういう関係」の絵にしか見えませんでした。
そして、それを笑って済ませられなかったのは、自分が3部に、ひじょうに思い入れをもっていたからです。
シモンとロシウの関係って、3部の要じゃないですか?
対立する理想と現実、理性と感情、大人になるということ、あきらめるということ、抑圧者を倒したシモン自身がいつのまにか抑圧者になっていたという皮肉、かつての夢や憧れの象徴を自らの手で葬り去ろうとするロシウ、現実を突きつけられ心が折れかかったシモンがヴィラルと出会ってまた立ち直る、等々……
それが単なる「恋愛関係」にされてしまうと……
シモンとロシウは「そういう関係」と公式で描かれちゃうと……
(一迅社の『カミナ&シモン写真集』が公式なのか否かという問題はありますが)
自分の中の3部が、一気にがらがらと崩されちゃったような気がしたのでした。
「単に、シモンさんとニアさんにヤキモチやいて殺そうとしてただけなのか、ロシウは!?」
……いやそれは絶対ないと思うんだけど。
『写真集』を見ると、そう見えても仕方ないというか。
最初に螺巌篇を見に行ったとき、まだ『写真集』のモヤモヤが残っていました。
だからその余波で、螺巌篇の「襟をはだけるロシウ」を見たとき、「出番が削られるのは仕方のないことだけれど、他の部分を削ってまでわざわざそんなシーンを入れなくても!」と、がっくりしてしまったのです。
自分は3部好きですから、当然、ロシウには思い入れがあります。
ロシウというキャラがいなかったら、自分はグレンラガンという物語自体に今ほどの魅力は感じていなかったと思うし、TV放映時に視聴者からさんざん嫌われたというエピソードも踏まえた上で、物語上なくてはならないキャラだったと思っています。
結局シモンに「かなわない」というセリフも、ロシウ個人がシモン個人にかなわなかったという意味と同時に、「インテリの限界」という普遍的な意味もこめられていると思っていました。
中島敦の小説(特に『悟浄歎異』など)を思い出していました。
グレンラガン全体を通じて、良い意味での「バカパワー」が「知性」の限界をぶっ飛ばしていく、その構造と、その爽快さが、たまらなく好きだったのです。
なのにそれが単なるBL関係にされてしまうと……
今まで「すごいすごいこのアニメ!」と興奮していた自分がアホというか、虚しく思えてきて……
そのやるせない思いが「腐向けかよ」などという乱暴な言葉になってしまったのは、これはもう、自分が悪かったと思っていますので、あやまります。ごめんなさい。
自分の文章のせいで不愉快な思いをしてしまった方がいらしたら、本当にすみませんでした。
だから、そういう方を絶対に否定したくありません。
また、そもそもグレンラガン自体が「なんか出ちゃった」にはじまる、いわゆる「狙ってるな~」と思わせるセリフがてんこ盛り、放映禁止回まで出しちゃったぐらいの作品ですから、いちいち「下品です」と目くじらを立てるつもりもありません。
「狙ってるな~」の中には、「BLっぽく見えるのを狙ってるんだろうな~」「これで女性のお客さんも取り込むつもりなんだろうな~」と思った部分もありますし。
パロディや同人誌で出す分にはいっこうに構わないし、イベントでは声優さんたちだってそういうのをジョークにして楽しんでいるし、自分だって笑わせてもらいました。
第一、自分はリーロン大好きですし。
(〈追記〉これを書いた後で、またちょっと反省。自分には本物の同性愛者の知人がいます。当然、その点以外はごく「普通」の家族思い・友達思いの良い人間です。本当は「オカマ」をジョークにすること自体、改めるべきかも知れませんね……)
でも、『カミナ&シモン写真集』の「シモンとロシウの水着写真」だけは、正直言って、すごくショックだったんです。
自分の目がイヤラシイのか? 脳みそが腐化してしまったのか?
でも、どうしてもこれは「そういう関係」の絵にしか見えませんでした。
そして、それを笑って済ませられなかったのは、自分が3部に、ひじょうに思い入れをもっていたからです。
シモンとロシウの関係って、3部の要じゃないですか?
対立する理想と現実、理性と感情、大人になるということ、あきらめるということ、抑圧者を倒したシモン自身がいつのまにか抑圧者になっていたという皮肉、かつての夢や憧れの象徴を自らの手で葬り去ろうとするロシウ、現実を突きつけられ心が折れかかったシモンがヴィラルと出会ってまた立ち直る、等々……
それが単なる「恋愛関係」にされてしまうと……
シモンとロシウは「そういう関係」と公式で描かれちゃうと……
(一迅社の『カミナ&シモン写真集』が公式なのか否かという問題はありますが)
自分の中の3部が、一気にがらがらと崩されちゃったような気がしたのでした。
「単に、シモンさんとニアさんにヤキモチやいて殺そうとしてただけなのか、ロシウは!?」
……いやそれは絶対ないと思うんだけど。
『写真集』を見ると、そう見えても仕方ないというか。
最初に螺巌篇を見に行ったとき、まだ『写真集』のモヤモヤが残っていました。
だからその余波で、螺巌篇の「襟をはだけるロシウ」を見たとき、「出番が削られるのは仕方のないことだけれど、他の部分を削ってまでわざわざそんなシーンを入れなくても!」と、がっくりしてしまったのです。
自分は3部好きですから、当然、ロシウには思い入れがあります。
ロシウというキャラがいなかったら、自分はグレンラガンという物語自体に今ほどの魅力は感じていなかったと思うし、TV放映時に視聴者からさんざん嫌われたというエピソードも踏まえた上で、物語上なくてはならないキャラだったと思っています。
結局シモンに「かなわない」というセリフも、ロシウ個人がシモン個人にかなわなかったという意味と同時に、「インテリの限界」という普遍的な意味もこめられていると思っていました。
中島敦の小説(特に『悟浄歎異』など)を思い出していました。
グレンラガン全体を通じて、良い意味での「バカパワー」が「知性」の限界をぶっ飛ばしていく、その構造と、その爽快さが、たまらなく好きだったのです。
なのにそれが単なるBL関係にされてしまうと……
今まで「すごいすごいこのアニメ!」と興奮していた自分がアホというか、虚しく思えてきて……
そのやるせない思いが「腐向けかよ」などという乱暴な言葉になってしまったのは、これはもう、自分が悪かったと思っていますので、あやまります。ごめんなさい。
自分の文章のせいで不愉快な思いをしてしまった方がいらしたら、本当にすみませんでした。
PR